42/46同期会 (第58回生ほか)

2015年10月17日〜18日 仙台

 

 本会は、最初、高畑廣紀君の発案で開催され、それ以来、同君が中心的存在となり続けられてきた。ここ約10年、他の同期生が幹事を担当することが多くなり、また、5年毎から2年毎の開催になった。私たちの年齢が進むにつれて、当初の単なる懐かしい飲み会とは異なり、幹事の人となりや開催地の特色が反映されるようになってきている。

 今回(10月17日~18日開催)は、長年、仙台の地でガンバッテきた秋田博敏君が幹事となり、日本三景の1つ松島に、例によって相変わらずのメンバーが全国から集まった。男性20名、女性3名である。相変わらずと申し上げたが、中には数年ぶりとなる方たちもいらっしゃる。なお、前回幹事であった杉村和久君は、定年退職で鹿児島から故郷の富山に転居する準備のため今回は不参加であった。 不詳、私、津久井は身体が言うことを利かないのをゴマかしながら、皆さんに迷惑をかけながらの参加であったが、久しぶりの同期生との気の置けない会合はやはり楽しいものであった。

 さて、今回、秋田君が試みたテーマは、2011年3月11日に発生した東日本大震災とそれに続く大津波による大災害から、被災地の東北地方沿岸部がどれだけ回復したか、参加者各自の目で確かめることであったと思う。そのため、当初彼は被災地めぐりを企画したようだが、その後断念した。一口に“被災地”と言っても、あまりにも“広く”かつ各被災地へのアクセスが極めて悪いことが理由であろう。“東日本”と銘打つだけあり、被災地は日本の東半分になる。どの地に焦点を当てたらよいものか。一泊二日という制約の中で彼がとった策は、地理的に被災地のほぼ中心に位置する“松島”の“一の坊ホテル”を会場とし、あとは個人個人が思い思いの地に赴きその地の状況を実感する、というものであった。

 彼の意図に沿って当初私は、千葉県の自宅を2日前に出発し、北リアス線海岸部、南リアス線海岸部、陸前高田~気仙沼~石巻~松島と辿る計画であった。しかし、ネットで予め調べはしたものの行き当たりばったりで、行けば何とかなるだろうといった生半可な気持ちで出かけた。行って観て分かったのは何ともならなかったことである。インターネットで調べたとおり、回復していたのは新幹線と拠点となる盛岡や花巻といった地方都市だけ。海岸部では地方都市間の交通は未だ回復は望めない状態。したがって、北リアス線海岸部も南リアス線海岸部も見学すらできなかった。 私は午前中の早い時間の便で盛岡から宮古へ行き、北リアス線海岸部を見学し昼までに釜石に着く計画を立てたが、宮古に行ったらその日のうちに盛岡に帰り着くことは不可能。そのため盛岡から宮古へ行くことを諦め、花巻経由で釜石に出ることにした。釜石から南リアス線海岸部と気仙沼~陸前高田~石巻方面の見学に急遽計画を変えた。釜石に着いて改めて分かったことは、南リアス線もほとんど不通と言ってよい状態であることだ。釜石湾内も波が少し高いと湾内観光の船は出さないという状態で、全く何もできずに立ち去るのみであった。このため、予定時間を大幅に消費してしまい、再び新花巻経由で新幹線に飛び乗り、仙台を経由して会場の松島へ駆けつけた次第である。結局、朝に盛岡を出て花巻経由で釜石に行ったのみで、計画したことはほとんど何もできずに松島へ行かざるを得なかった。他の津波被災地を見てきた人達も似たような感想を漏らしていた。つまり、震災から4年たったが、津波被災地は復興には未だほど遠い状況と言えるようだ。その理由は、一口に被災地というが、“東日本”と言うだけあってあまりにも広いこと、この地域が従来から出稼ぎで知られる過疎地で主要な産業が漁業であること、日本の縮図と言われるように高齢化が進んでおり、復興を図るうえでその人口構成が大きな負担となっていること、等々、不利な条件が揃い過ぎている点にある。しかし我々は、日本の半分に及ぶこの地域を見捨てることは許されない。と、この齢になり思い知った。この同期会も回を進めるごとに益々考えさせるテーマを突き付けてくれる。これも齢の効用か。

 同期生のまとめ役的な存在であった高畑君は、10数年前に富山から仙台に赴任し、東北薬科大学で定年を迎えた。その定年記念パーティーの1週間前の一昨年の3月に残念ながら他界した。また、磯村和正君は、今回の同期会に参加し、その足で秋田県玉川温泉に行き、逗留中に心筋梗塞で突然他界した。磯村君は、長年、地域厚生委員として青少年のために尽くしてきた由。二人ともそれぞれの社会貢献をして人生を終えた。

ここに謹んでご冥福をお祈りする。合掌。 (津久井和夫 記 )