さんぱち会(第50回生)

第11回さんぱち会 平成28年10月16日〜17日 横浜ロイヤルパークホテル

 

 平成28年10月16日~17日、横浜ロイヤルパークホテルにおいて第11回目の同窓会(さんぱち会)を開催した。このホテルは横浜みなとみらい地区にそびえ立つ高さ約300メートル、70階建て、横浜ランドマークタワーの上層部にある今話題のホテルです。晴れた日には富士山を見渡すことが出来ます。 昭和34年4月に入学してから、今年は足掛け58年目、会員の年令70代後半です。関東圏12名の会員が今回の幹事でしたが、ひょっとするとこれが最後のさんぱち会になるかもしれない、何としても成功して、記憶に残るさんぱち会にしたい、という思いを胸に、早々と昨年(平成27年)の春に準備を始めました。「一度は泊まってみたい横浜のホテル」としてネットに紹介されている横浜ロイヤルパークホテルを、迷わず選んだのにはそのような背景がありました。

 『旧富山大学50年史』によれば、昭和34年の薬学部の志願者数680名、募集人数80名であった。現在のさんぱち会会員は64名(物故会員と住所不明会員を除く)。そして今回のさんぱち会への出席会員は38名、会員のご家族3名、合計41名の盛会であった。ちなみに、会員の出席率は約60%で、50回生の年齢からするとかなり高い出席率ではないかと思われます。

 「さんぱち会2016」は18時30分開会でしたが、午前10時過ぎに早々と会場に到着した人がいました。北海道から家族二人を伴って来てくれた人も、健康上の理由で息子さんに付き添われて来てくれた人も、そして、米国から参加してくれた人もいました。また、「体が不自由になって外出がままなりません。左手で書いた絵手紙ですが、私の代わりに送ります。」というメッセージを寄せてくれた人には胸を打たれました。これらは、4年に一回のオリンピックの年のさんぱち会が、50回生にとってどれ程大切なものであるかを再認識させられたエピソードの一端です。  懇親会は、70階の「レインボー」という部屋で催しました。開会の挨拶、物故会員への黙祷、少し間をおいて乾杯と進み、盛り上がったところで、“映像で綴る想い出”と銘打ったセッションに移りました。まず、卒業アルバムを編集したスライドで、懐かしい想い出を昨日のことのように楽しみました。続いて「富山大学ヒストリア」~大志のもとに、その歴史は始まった~、というビデオを鑑賞。これは、平成26年に富山テレビが30回にわたって放映したもので、富山大学の歴史を顧みるには絶好の番組です。「薬学校のおこり」、「日本初の薬学専門学校開校」ほかの薬学部関連番組をインターネットでいつでも観ることが出来ます。最後に校歌を合唱して、一日目の(公式)プログラムが終了しました。勿論、この後外出して、みなとみらいの建物の灯りが海面に映り、水面と地上が一体となる、なんとも言えない美しい夜景を堪能した人々もいました。

 二日目は横浜市内観光です。それぞれの人の希望によって、海コースと山手西洋館巡りコースに別れました。歩き始めてしばらくして、想定外の小雨が降り始めました。 海コース:ホテルを出て海に向って真っ直ぐ歩くと、やがて大観覧車が見えてくる。昨夜ホテルから見下ろした大観覧車は、まさに100万球のLEDが織りなす夢の世界であった。この観覧車が、横浜のシンボルと言われている由縁です。明治時代からの石畳を踏んで赤レンガ倉庫1号館に雨宿りを兼ねて立ち寄る。雨のせいかショッピングをしている人が多かったように思います。近くの乗り場からシーバスに乗って10分間の船旅。氷川丸の傍を通って山下公園着。ガールスカウトの像、カモメの水兵さんの歌碑など、この地でなければ味わうことが出来ない雰囲気を楽しみ、相変わらずの小雨の中、ランチのため中華街に。

 山手西洋館巡りコース: JR石川町駅で下車し、少し急勾配の坂道をゆっくりと10分程歩き「ブラフ18番館」に到着。これ以後はほぼ平坦な道を、隣の外交官の家(明治の外交官内田定槌邸)→ベーリック・ホール→エリスマン邸→山手234番地→外国人墓地を見学した。この山の手に現存する歴史的建造物の多くは関東大震災後に建てられた外国人住宅が、後にこの地に移築復元されたもので、当時の外国人の暮らしぶりが偲ばれます。外国人墓地の見学が終わった頃、疲れが出始めたため、予定を切り上げアメリカ山公園を通って、海コース組が待っている中華街のレストランに向いました。

 昼食は、予約しておいた中華街の萬珍樓本店で広東料理を。この店は124年前の明治25年創業という老舗で、化学調味料を加えずトレーサビリティ食材のみを使うことを売りにしているとのこと。複数の店に足を運んで店の佇まいや雰囲気を見て、また実際に味見をして決めたという女性幹事の皆さんの努力に感謝。大いに食べ、大いに語った昼食会でした。萬珍樓での昼食は単なる昼食ではなく二度目の同窓会をしたみたいだったとの声がありました。次回のさんぱち会においても、宴会の翌朝の解散ではなく、ランチ後の解散にしてはと思います。

50回生にとっての「はらから」

 昭和34年に入学した私達が最初に行った共同作業は、住所録と自己紹介を兼ねた文集を作ることでした。第1号に「はらから」という名前を付け、卒業するまでに合計7号を発行しました。卒業後25年間中断したものの、昭和63年に復活させ、それが今日まで連綿として続いています。

 4年に一度オリンピックの年に催すさんぱち会に時期を合わせて、「はらから」を発行し、作文を寄稿した人、しなかった人、さんぱち会に出席する人、しない人の区別なく、全会員に文集を配布します。そうすることによって同窓会に出席しなかった人も、多くの同僚の近況を知ることが出来ます。またその逆も可能です。さんぱち会と「はらから」がセットであることを踏まえて考えると、参加会員数は47名、出席率は73%となります。

 幸いにも、次回のさんぱち会を開催する当番の中部圏が、2020年も開催すると宣言してくれました。心強く嬉しい限りです。日々の健康に留意して過ごし、再会を期したいものです。

(野口正喜㊿記)