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「京都散策」

(43年卒)石 橋 嘉 夫

21世紀最初の年も終わろうとした12月4,5日の両日久しぶりに京都の旅を楽しんだ。 さて、自分の記憶の中では女房と一緒の旅行で2日間の有給休暇をとったのははじめてのことである。今回休みをとらなければならなかったのは、京都の名所旧跡でも許可が必要な「仙洞御所」と「桂離宮」が宮内庁に申請したものが下りたからであった。

紅葉の時期を多少過ぎたかと思いながら、厚着をして昨夜から降り続いている雨の中を出発したが、幼稚園の遠足の様な気分で心が弾んでいたので、あまり気にせずにスタートできた。京都駅に到着した頃には雨も上がり薄日が射す天気に回復していた。ホテルに直行し荷物をフロントに預け、蛤御門から御所へ入り雨で少し濡れた玉石を踏みながらゆっくりと仙洞御所を目指した。約束の時間20分前に開門になり、申請書と本人が同じか否かの確認を受け、大宮御所正門を進んだ。20数名が一団になって説明をしてくれる人に続いたが、流石に最後には皇宮警察官がついていた。

庭園は幾度かの改修があったようであるが小堀遠州造営の名残をとどめていて、ただただ驚きと溜息が入り乱れた。お庭の散策は基本は舟遊びであるとの解説は時代の背景を偲ばせ、今一度御舟着に目をやり、池面からの全景も想像した次第であった。約一時間の周遊はあっという間であり、願わくは紅葉の時期に少し遅れたのは残念であった。

翌日は快晴で少し汗ばむほどの陽気になった。今日は13時30分の予約ができている「桂離宮」を訪れることが大きな目的であり、午前中は近場の散策で時間を費やしたが、若い頃の神社,仏閣に対する想いと現在感じるものとの違いは何なのであろうか?言えるのは数ではなく質であり、一つの事柄をじっくりと研鑽しようとしているのか?あるいは幅広く手を広げる活力が消失しつつあるのかわからない。

四条阪急デパートから電車で約20分で桂駅に到着したが、時間も充分あり二人で歩くことにした。通りは旧道を思わせる様に大きな茅葺きの家も残っていたが、狭い道を平日ながら車の往来は多くあり、京都市内への通勤圏として発展していることが伺われた。歩くこと20分して桂川につき当たり、さらに川沿いに進むとそれらしきたたずまいが現れてきた。やはり車で見えられる人が多く、駐車場も完備していたが、玄関に続く庭に植えられている松の手入れは流石だと思われた。30分も待ったであろうか開門があり待合室に案内されたが、受付では一段と厳しい視線でチェックを受けたのは印象的であった。

桂離宮の庭園は至る所に自然の風景を満喫させるように配置され、お茶を嗜まない私にも「茶の湯」の世界に引きずり込まれてしまいそうであった。沢山ある茶室の中でも「松琴亭」は自然との調和という意味で殊の外感激した。最高は「御殿」であることは間違いのないことであるが、私の浅学では及びも着かないものとしての存在であった。周遊した中で、「真、行、草」なる飛び石(延段)は、そこから続く何かを期待させるという仕掛けをさせているといった深い意味合いは、この庭園が醸し出す王朝文化を肌で感じる一時であった。

今までに経験したことがなかった世界への旅であったが、現在懸命に働き、こうして仕事から開放され、リフレッシュしている自分は自由がなかった約400年前の人達に比べて本当は幸せではないかと想いながら、帰路に着いた。

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