県立薬学専門学校の門柱(中央)

大正10年(1921)4月1日、官立富山薬学専門学校となり、奥田に移ったとき、県立時代の思い出にと奥田に移された。
総曲輪時代の面影として、県立時代の卒業生になつしい記憶を呼び起こさせた。
学校は富山大学薬学部となり、五福の地の中庭に移され、さらに富山大学薬学部の玄関前に移され、官立薬学専門学校の門碑とともに並び立ち、母学の発展を永久に見守っている。
もう片方の門柱は県立薬学専門学校校舎跡地に残っている。

 

官立富山薬学専門学校校門碑(右)
昭和4年(1929)9月18日、学校の門碑の書き換えに当たり、 母学に縁の深い元富山市長の稲垣正宗氏に依頼した。
門碑は木製から縦1尺8寸5分(約60cm)、巾4寸5分(約14cm)、重さ3貫800匁(約14kg)の青銅製に取り替えられた。稲垣氏は官立へ移管当時、第7代富山市長をつとめており奥田村に校地を求め移管のために非常な尽力をされた方である。
氏は公平無私で、富山市政に大いにその手腕をふるい、辞任後は(株)広貫堂支配人として活躍された。また、書道、漢学に秀でており、号を神江と称し、多くの書を残した。

忠孝碑と松(左)
官立富山薬学専門学校と富山大学薬学部の奥田校舎時代には校舎正面のロ ータリーの中央にあった。
その後、校舎が奥田から五福へと移転した際に五福校舎の中庭の池のたもとに2本の門柱とともに移された。
現在は富山大学薬学部玄関前に移され、卒業写真 に恰好な背景となっている。

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